第5回「本で旅をしよう!」~図書館員がオススメする本~ 

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  • 掲載日2020年10月15日
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 今回は、世田谷区にゆかりのある作家徳冨蘆花の「世界旅行」をお届けします。芦花公園の近くにある粕谷図書館には、「徳冨蘆花コーナー」があります。

明治の世界旅行~

『順禮紀行』徳冨健次郎著 明治39年(警醒社) 

  1900(明治33)年に出版された『不如帰』などで人気作家となった徳冨健次郎(徳冨蘆花。以下、蘆花で統一)は、1906(明治39)年3月の初め群馬県伊香保滞在中に「不図基督の足蹠を聖地に踏みて見たく、且トルストイ翁の顔見たくなり」とし、同年4月4日、横浜港から日本郵船の貨客船「備後丸」の特別三等船室に乗り込み順礼の旅に出発します。この書は横浜港出航後、8月4日に敦賀港に帰国するまでの4か月間に渡る中東・ロシアを巡る旅の記録です。
「備後丸」はインド洋とスエズ運河を経由してロンドンからアントワープに向かう1896(明治29)年に開設された日本郵船の欧州航路に就航していた船と思われますが、蘆花が乗船したのは日露戦争により航路が中断された後の再開第一便のようです。蘆花はエルサレム行きを「不図」思いついたと記述していますが、航路が再開するという情報を得て、乗船を決心したのかもしれません。

 蘆花が旅をした前年の1905(明治38)年は日露戦争が終結し、また第一次ロシア革命が起こった年です。第一次世界大戦勃発の8年前でもあり、この旅行記には、戦間期と言える当時の国際情勢とそれに翻弄される人々の様子が随所に書かれており、20世紀初頭の世界の雰囲気を伝える貴重な資料となっています。
「土耳古(トルコ)人の日本人に對する態度は唯一也。己が深怨のある露西亜に勝ちて呉れし日本、終始己を窘め窘めする西洋白哲人の鼻を折りし同じ東洋人の日本、是れ彼等の日本人観也。」(247頁)など、コンスタンチノープル(イスタンブール)に滞在した際には、今もなお親日的と言われるトルコの人々の様子を描いています。
 一方、蘆花は日露戦争勝利に浮かれている日本への警句とともに、自身の日露戦争に対する立場についても語っており、蘆花のみならず当時の日本人の戦争に対する意識もうかがわせます。

 この書は、当時の人々にとっては、世界を知る貴重な資料でもあったと思われます。蘆花が帰国した8月の4か月後にこの書は出版されていますが、これは当時としては異例の速さでしょう。海外の情報を得ることが難しかった20世紀初頭の時代では、この書は海外の見聞を伝えるニュースのような役割を果たしたのかもしれません。

 もちろん旅行記としても楽しめます。この書では、この旅の本来の目的であるパレスチナの聖地巡礼と、モスクワから約200キロ南のヤースナヤ・ポリャーナに居住しているトルストイの訪問については特に詳細に書かれています。パレスチナでは、イエス・キリストの足蹠を現地で探すことの愚を悟り、残されているものは「唯天の青、白き丘」であり、今あるのは「エルサレムの主たらんと争ふ人の子の鄙劣(ひれつ)のみ」と嘆く一方、ロシア文学に親しんだ蘆花にとっては「露西亜に入るは寧故郷に入るの感あり。」(269頁)などと、蘆花は心情を吐露しています。

 飛行機で移動できる現代とは異なり、船と鉄道でしか移動できなかった当時は目的地に着くまでに多くの時間と経由地を費やしました。往路の船は横浜から蘆花が下船したポートサイドまで45日間を要し、その間に神戸、上海、香港、シンガポール、ペナン、コロンボを経由しています。船内の様子や、途中の街並みの記述も興味深いものがあります。移動中に滞在したエジプトとトルコを記述している部分は、今出版されているガイドブックと見比べながら読み進めると面白いかもしれません。
 出発当初はトルストイ訪問後、パリ・ロンドンなどをまわり、アメリカへ、そして太平洋を横断して世界一周する予定でしたが、蘆花は予定を変更し、モスクワからシベリア鉄道、東清鉄道を経由して13日かけてウラジオストクに到着します。その後、敦賀行きの船に乗り込み帰国の途につきます。世界一周は13年後の1919(大正8)年に妻愛子と共に実現します。

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 旅とは何のためにするのでしょうか。自分探しの旅という言葉があるように、旅というのは娯楽としてだけでなく、自らの人生を変えるため、変えるきっかけを掴むために行おうとする自発的な心の動きかもしれません。蘆花は、「ペナンからコロムボの中間で、余は其思出の記を甲板から印度洋に抛り込んだ。思出の記は一瞬の水煙を立て印度洋の底深く沈んで往つたやうであつたが、彼俗物菊池慎太郎が果たして往生したや否は疑問である。印度洋は妙に人を死に誘う所である。」(『みみずのたはこと』「印度洋」)と記述しています。
 この旅の後、蘆花はトルストイからすすめられた農業生活を実行するため、1907(明治39)年の2月に当時農村だった千歳村の粕谷に転居します。蘆花の新しい人生が始まります。(Y・O)

■世田谷区立図書館で所蔵している『順禮紀行』
『近代日本キリスト教文学全集 2』(教文館)
『徳富蘆花集 8』(日本図書センター)

■国立国会図書館オンラインでは全文を閲覧可能です
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000000513525-00外部リンク

■参考図書
『徳冨蘆花 人と作品 35』福田清人・岡本正臣編著(清水書院)
『日本人にとってエルサレムとは何か-聖地巡礼の近現代史-』臼杵陽著(ミネルヴァ書房
『日本郵船歴史博物館 常設展示解説書』日本郵船歴史博物館編(日本郵船

 

~続・大正のフルムーン旅行~

『徳富蘆花集 14』(日本から日本へ 東の巻/『徳富蘆花集 15』(日本から日本へ 西の巻)

 第一次世界大戦が終結した翌年の1919(大正8)年の1月に徳冨健次郎(徳冨蘆花。以下、蘆花で統一)は妻の愛子と共に世界一周の旅に出ます。特別三等船室で隠れるように旅立った『順禮紀行』とは異なり、今回の船室は一等。大勢の人に見送られます。行く先々で名所旧跡を周り、名物を食べ、現地の日本人社会との交流も欠かしません。「全く先のは順禮行であつたが、今度のは順禮行ではない。日子日女(ひこひめ)の旅行は出来得る限り快適な明らさまな旅行であるを要する。船も汽車も旅館も、及ぶ限りは好いもの好いものと擇んだ。」(第十二篇 日本へ 第三 太平洋(後))

 『順禮紀行』では失望したエルサレムですが、「先日俺はエルサレムがいやになつて、早く立たう、二度と来まい、と思ふたが、矢張エルサレムは美しい都だ。全くエルサレムは美しい都だ。耶蘇が「エルサレムよ、エルサレムよ」と愛し嘆いた筈だ。」(第四篇 昔昔のふるさと(Palestina) 其四 屋上日記(続))と綴ります。前回の旅行の後、トルストイに影響を受けて蘆花は世田谷区粕谷に転居しますが、そこでの生活が彼の立場や考え方に影響を与え、それが旅のスタイルにまで変化を及ぼしているのかもしれません。

 1919(大正8)年1月27日、蘆花は大阪商船の「ぼるねお丸」に横浜から乗り込みます。「ぼるねお丸」は、蘆花の記述によると大阪商船が新たに開いた欧州航路の第二便であり、客扱いとしては一番船との事です。大阪商船が1919年に出版した『航路案内』では、この航路(北欧州航路)について「毎月一回の定期航路にして荷物輸送を主とするも傍ら旅客の取扱をなす。」と書かれています。当時の欧州行きの旅客航路の主力は日本郵船だったようですが、そちらは満員で蘆花が探し出したのがこの船でした。船は13年前の旅と同様に上海、香港、シンガポールなどを経由して、46日後の3月13日エジプトのポートサイドに到着します。

 蘆花が旅をしたのは、第一次世界大戦終結の翌年です。蘆花がパレスチナを旅していた3月から6月にかけては、パリでは講和会議が開かれていました。この旅の合間合間には大戦の影響が色濃く書かれています。カイロ滞在中には、イギリスに対する抵抗運動を目にし、蘆花はエジプトを朝鮮、イギリスを日本に置き換え、民族自決について自説を述べるとともに、「私の所望」として、イギリス首相ロイド・ジョージや西園寺公望などパリ講和会議参加者に宛てて書簡を出します。内容は、軍備の撤廃などのほかに、蘆花の持論である「1919年を世界共通新紀元の第一年」とする「新紀元の創始」などが書かれたものでした。

 パレスチナ滞在の後、蘆花はヨーロッパ諸国を回ります。ドイツ滞在中には敗戦国の窮乏を綴ります。「今日初めて伯林(ベルリン)を歩いて見て、今更のやうに皆の顔色にうたれた。Weimar(ワイマール)では、まだ此様ではなかつた。伯林に來て本當に戰敗獨逸に來た感がある。皆蒼ざめて居る。然らずばドス黝い。頬が出たり、眼に光が無かつたり、血の氣がない顏ばかりである。」「全く獨逸は餓鬼道に落ちて居る。」(第八篇 獨逸 第二 伯林 其二 伯林日記)
一方、ベルギーからパリまでの汽車で蘆花は、終戦後1年たっても残されている砲弾跡、塹壕、戦車を目にし「全くひどい。あまりにひどい。」と嘆き、「獨逸の罪業は深い。」と綴っています。(第九篇 白耳義から佛蘭西へ 第二 Hunの荒らし)

 その後、蘆花はニューヨークに渡ります。ニューヨークでは在住日本人に講演等を行ったのち、大陸横断鉄道に乗車し、サンフランシスコに移動します。サンフランシスコからは東洋汽船の春陽丸でホノルル経由、横浜に到着します。こうして、1年1ヶ月と13日に渡る蘆花夫妻の世界一周の旅が完結します。

 この本のタイトルは『日本から日本へ』ですが、これは旅程を表しているだけでなく、蘆花が世界一周をし、その中で世界について考えるとともに、日本人と日本国についても述べているからでしょう。ロンドンで、「日本にあつて、他にないものは何?」という問いに対して蘆花は、「日本が若い事だ、未來をもつ事だ、日本のもつものは“Youth”であると云うに話は落ちて往つた。世界に於ける日本の年齢は約そ何歳位であらう?“先づ中學四年生位の處ですな”とある一人は云ふた。」(第十篇 英吉利 第十二 倫敦日記(続))と答え、日本の前途に対して明るさを仄めかしている一方、アメリカなどの日本人排斥の動きなどを憂慮しています。「社會的階級から云へば、今迄踏みつけられたろう勞働者が頭を上げる時である。男女の上から云へば、今迄踏みつけられた女に花が咲く時である。人種から云へば、今迄踏みつけられた有色人種の時代が來た時である。世界をめぐつて、痛切に私はそれを感ずる。」(第十二篇 日本へ 第三 太平洋(後))
 そして、日本に帰ってきた後にこう綴ります。「世界を一周して見て矢張日本が一番好い。而して日本の中で粕谷が一番好い。其筈である。宇宙の中心は自己である。自己が立つ所が即ち宇宙の最上位であるに不思議はない。」(第十三篇 日本 其二)

 最後に気になるお値段についてです。蘆花はイギリスの入国審査官に、世界一周に2万2千円を要したと語っています。ただし半分は借金で賄ったようで「日本から羅馬までは我足で歩いたが、羅馬から日本までは義足で歩いたからである。義足と云ふのは、借りたおあしの義。」(第十篇 英吉利 第一 Great Silence)。また、ニューヨークでは在住日本人との会話で今回の旅行に約2万円を使ったと言ったところ、「それでは贅澤な旅行は出來なかつたでせう」(第十一篇 第二 紐育)と返答があったそうです。
では、2万円とはどのぐらいの価値なのでしょうか。物価の比較方法は様々ですが、日本銀行のウェブサイト「日本銀行 教えて!にちぎん」(注)では、企業物価指数を用いた物価の比較方法が紹介されています。その計算方法によると、令和元年の物価は1919年の約458倍となり、これ当てはめると2万2千円は約1千万円になります。また、『日本郵船株式会社渡航案内』には運賃が掲載されていますが、横浜からポートサイドまでは一等船室で600円となっています。これを先の指数に当てはめると、約27万円になり、一等船室としては格安と感じますので、実際は現在の1千万円以上の費用がかかったのではないかと推測されます。いずれにせよ、当時としても多額のお金を用いた旅行であったのは間違いないようです。(Y・O)

注 https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/history/j12.htm/外部リンク
日本銀行(2020年5月12日確認)

■世田谷区立図書館で所蔵している『日本から日本へ』
『徳富蘆花集 14』(日本から日本へ 東の巻)徳冨蘆花著、吉田正信編、日本図書センター(原著:徳冨健次郎著 徳冨愛著『日本から日本へ 東の巻』大正10年3月,金尾文淵堂)
『徳富蘆花集 15』(日本から日本へ 西の巻)徳冨蘆花著、吉田正信編、日本図書センター(原著:徳冨健次郎著 徳冨愛著『日本から日本へ 西の巻』大正10年3月,金尾文淵堂)
■国立国会図書館オンラインでは全文を閲覧可能です
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964285外部リンク
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964286外部リンク

■参考図書
『徳冨蘆花 人と作品 35』福田清人・岡本正臣編著(清水書院)
『日本郵船歴史博物館 常設展示解説書』日本郵船歴史博物館編(日本郵船)
・『航路案内』大阪商船株式会社編、大阪商船、大正8年
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960906外部リンク
・『日本郵船株式会社渡航案内』日本郵船株式会社、日本郵船、大正5年
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948469外部リンク

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